当館管轄区域概観

各連邦構成主体概観

地域名 面積
(km2)
人口
(人)
日本との時差
(時間)
首都
ハバロフスク地方 78万7600 134万3869 -1 ハバロフスク市
ユダヤ自治州 3万6300 17万6558 -1 ビロビジャン市
アムール州 36万1900 83万0103 0 ブラゴヴェシチェンスク市
サハ共和国(ヤクーチヤ) 308万3500 95万8528 0 ヤクーツク市
ザバイカル地方 43万1900 110万7107 0 チタ市
ブリヤート共和国 35万1300 97万2021 +1 ウラン・ウデ市
イルクーツク州 77万4800 242万8750 +1 イルクーツク市
管轄区域データ集 (PDF)

ハバロフスク地方

知事:
ヴャチェスラフ・シュポルト
議長:
セルゲイ・ルゴフスコイ
ハバロフスク市長:
アレクサンドル・ソコロフ
地勢:
東はオホーツク海に面しており、川や湖の多い山がちな領土である。南北の長さが約1800kmあるため、多様な動植物が見られる。南部で約900kmにわたり中国と国境を接している。
沿革:
ハバロフスクの名は、17世紀中頃にこの地を探検したロシアの探検家エロフェイ・ハバーロフにちなんでいる。1858年、ロシア帝国と清国との間で結ばれたアイグン条約によりこの地がロシア領に編入され、同年、現在のハバロフスク市の位置に国境守備隊の哨戒所が設けられたことを契機に都市の建設が始まり、1893年に現在の名称であるハバロフスクとなった。
第二次世界大戦後、シベリア抑留の中心地の一つとして多くの日本人が強制労働に従事し、これらの日本人が残した建築物は現在も各地で見ることができる。
ソ連時代においては、中国と国境を接する軍事的要塞の地として(当地には東部軍管区司令部が存在)、また、豊富な天然資源を背景とした原材料の供給地として、軍需産業を中心に発展してきた(造船所、航空機製造工場などがある)。
政治的には、極東連邦管区大統領全権代表部及び極東発展省が存在する「極東の首都」と呼ばれる。
現在ハバロフスク市には、日本と中国の2ヶ国が総領事館を置いている。

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ユダヤ自治州

知事:
アレクサンドル・レビンターリ
議長:
リュボフィ・パヴロヴァ
ビロビジャン市長:
エフゲニイ・コロステリョフ
地勢:
ユダヤ自治州は、極東地域の南に位置し、アムール川を挟んで中国(黒竜江省)と550kmに亘って国境を接しています。
沿革:

19世紀末、シベリア鉄道の建設開始と共に多くの建設労働者が流入し、1928年、この地区がユダヤ人入植地に指定されるとユダヤ人が移住するようになりました。1930年、極東地方の一部としてビロビジャン地区が創設され、34年の改編でユダヤ自治州が誕生しました。

38年、極東地方がハバロフスク地方と沿海地方に分割されたことに伴い、再びハバロフスク地方に編入されました。しかし、1991年には、ユダヤ自治州はロシア連邦の独立した構成主体となって現在に至ります。

州都ビロビジャンは、1912年創設されたアムール鉄道のチホニカヤ駅から発展しました。この駅に、1928年最初のユダヤ人移住者600人がウクライナやベラルーシから到着しました。1931年、駅はビロビジャンと改名され、37年には市となりました。ビロビジャンという名前は、州を流れるビラ川とビジャンにちなんで2つの川の名前から取られました。

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アムール州

知事:
アレクサンドル・コズロフ
議長:
コンスタンチン・ジヤコノフ
ブラゴヴェシチェンスク市長:
ワレンチナ・カリタ
地勢:
ロシア連邦の南東に位置し、北はスタノヴォイ山脈に、南はアムール川に囲まれている。また、南はアムール川を挟んで中国と1246kmもの長い国境を接している。
沿革:

ロシア人がアムール川流域を開拓し始めたのは17世紀前半のことで、これはポヤコフ、ハバロフ等の探検家達であった。その後、アムール川上流地域にコサック達が移住し、1858年12月、皇帝の勅令によりアムール州が創設された。コサックに続き、ロシア中央部から農民達が移住したが、20世紀初め、鉄道建設が始まったことがこの地域を大きく発展させることとなった。

ロシア革命後(1917年)、アムール州は、アムール共和国となったり、極東共和国あるいはハバロフスク地方の一部となったりしたが、1948年、ハバロフスク地方から分離され、再びアムール州となった。

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サハ共和国(ヤクーチヤ)

首長代行:
アイセン・ニコラエフ
議長:
アレクサンドル・ジルコフ
ヤクーツク市長代行:
ドミトリー・サドヴニコフ
地勢:

ロシア全土の約18%を占め、かつロシア連邦構成主体の中で最大の面積を誇る。共和国内には3つの時間帯が存在している。

国土のほぼ全域が永久凍土(地下500メートル以上)に覆われている。また、国土の80%がタイガ地帯で、針葉樹林に覆われている。

また、共和国を南北にレナ川をはじめ多くの川が沢山存在している。

沿革:

ヤクート人の祖先は中央アジアから北上し、10世紀初頭、西部沿バイカルからレナ川に沿って北上し、レナ川中流域及びヴィリュイ川流域(中央ヤクーチヤ)に定着、その後、16世紀の帝政ロシア植民地化の開始と共に、レナ川下流、オレニョーク川、ヤナ川、インジギルカ川、コリマ川流域など北部ヤクーチヤに広がり、現在の分布域へと至った。

19世紀末には人口が20万人以上(そのうち、ロシア人は3万人)に達し、20世紀初頭以降、ロシアからの独立を主張するヤクート民族ナショナリズムが芽生え始め、ロシア革命直後には、反ボルシェビキ勢力の一翼を担うこととなったが、1922年4月ヤクート・ソヴィエト社会主義自治共和国が成立した。

ソ連崩壊前の1990年9月、ヤクート自治共和国は国家主権宣言を発し、翌1991年12月の共和国大統領選挙。それと同時に共和国の名称が現在のサハ共和国(ヤクーチヤ)へと改称された。

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ザバイカル地方

知事:
ナタリア・ジダーノワ
議長:
イーゴリ・リハノフ
チタ市長:
アナトリィ・ミハリョフ
地勢:
地方は、東シベリアに位置し、高山氷河地帯からツンドラ、ステップ、砂漠まで変化に富む様々な自然帯を抱えている。西はヤブロノイ山脈に囲まれ、南は中国及びモンゴルと国境を接している。
沿革:

16 世紀末に始まったシベリア開発に引き続き、 17 世紀半ばには、ザバイカル地域(バイカル以東の地)がロシア国家に統合されるようになり、このプロセスは 18 世紀初頭には基本的に完了する。

ザバイカル地域の開発に携わった人達は2つの移住者グループに分けることができる。1つは、コサック、軍人、商人、手工業者、農民等の国家的とも言うべきグループで、もう1つは、土地のない貧民、流民、シベリア流刑になった犯罪者等のより良い生活を求めてやって来た人民のグループである。この地域は、デカブリスト(農奴制と専制の廃止を目指して 1825 年 12 月に蜂起した貴族の将校たち)の流刑地としても有名である。

19 世紀初頭には人口も増え、 1851 年には、軍事力保持のため、バイカル湖からアムール川までの広大な領土を有した新しい行政区画、ザバイカルスキー州が創設され、チタは州都となる。ロシア革命とそれに続く内乱期にチタを首都とする極東共和国の創設等の変遷を経て、 1937 年、チタ州が誕生した。

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ブリヤート共和国

首長:
アレクセイ・ツィデノフ
議長:
ツィレンダシ・ドルジーエフ
ウラン・ウデ市長:
アレクサンドル・ゴルコフ
地勢:
東シベリアに位置し、北西にバイカル湖(湖岸の 4 分の 3 は共和国に属す)を擁し、南西及び北東は山脈に囲まれた山がちな土地である。同国の最高峰は、ムンコ・サルドィク山の 3491 m。南部はモンゴルと国境を接している。
沿革:

ザバイカル(バイカル湖以東)地域は、古代より中央アジアの歴史文化圏の一部であった。紀元前 3 ~ 1 世紀には遊牧民の国家がこの地に建設されていた。 1206 年には、チンジス汗が遊牧の種族を大モンゴル帝国に統合し、帝国崩壊後、分裂しつつもこの地に遊牧の種族は居住していた。
17 世紀、ロシアが国境を東に拡張し始め、モンゴル世界からのブリヤート族分離が起こった。

1666 年、ウダ川の岸辺にコサックにより建設された木造要塞は、その後、商人の街、ヴェルフネウジンスクに発展し、現在のブリヤート共和国の首都、ウランウデとなった。

ロシア革命後の 1923 年、ソ連邦を構成するブリヤート・モンゴル自治ソヴィエト社会主義共和国となった。

1991 年 10 月には、ブリヤート共和国憲法は同共和国がロシア連邦内の独立した民主主義法治国家であることを宣言し、 94 年には初代共和国大統領が選出された。

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イルクーツク州

知事:
セルゲイ・レフチェンコ
議長:
セルゲイ・ブリルカ
イルクーツク市長:
ドミトリー・ベルドニコフ
地勢:
東シベリア南部に位置するイルクーツク州の面積は 76 万 7900 平方キロメートル(日本の約 2 倍)で、ロシア連邦全体の約 4.6 %(全国第 6 位)を占めており、東サヤン山脈及びスタノボイ高地(共に 3000 m級)等に囲まれる。
国土の約 80 %が森林(タイガ)に覆われ、北部には永久凍土地帯が広がる。また、東部には、世界の淡水量の5分の1をたたえる、世界一の透明度を誇る世界最大の淡水湖、バイカル湖が広がっている。
沿革:

イルクーツク市は、ロシア人によって 1661 年に築かれた城塞に起源をもち、その場所がイルクト川とアンガラ川の合流地点であったため、イルクト川にちなんでイルクーツクと名付けられた。
17 ~ 18 世紀には東西交易の接点となり、ロシア極東から毛皮、中国及びモンゴルから茶、絹などがヨーロッパへ、ヨーロッパ方面からは鉄製品や手工業品がアジア方面に運び込まれた。
帝政ロシア時代、イルクーツク市は反体制主義者・政治犯の流刑地としての長い歴史をもち、特に 1825 年に発生した「デカブリストの反乱」の首謀者たちが流刑された地として有名である。
1719 年に設立されたイルクーツク郡(その後、県)は、幾度かの変遷を経て、 1851 年には、今日のイルクーツク州とほぼ同じ領域となり、 1937 年 9 月にイルクーツク州に再編された。